「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)

○イエス様は十字架にかかって死なれ、墓に葬られましたが、そのままではなく、3日目によみがえられました。しかし、弟子たちはどうして恐れていたのでしょうか。私たちはどうでしょうか。

○復活されたイエス様は、不安の真只中に立って私たちに平安・平和(シャローム)を告げられるのです。イエス様が言われる「平和」「平安」とは、私たちの存在そのものにとっての真の平和です。復活こそが、私たちにその真の平和・平安を与える神ご自身である主の訪れなのです。復活がなければ人間は死を前に不安しか抱けないからです。イエス様の復活は、この人間の存在の根本的な不安に神である主が訪れてくださった出来事なのです。イエス・キリストとは「インマヌエル」、「神が私たちと共におられる」という意味です。

○私たちが死を超えて永遠に生きる姿でイエス様が現れてくださったのです。不安の真只中に「インマヌエル、神が私たちと共におられる」のです。それを疑う者のところにさえ、復活のイエス様は現れてくださいました。永遠におられるイエス様は生きて働かれ、何にも妨げられず、何ものにも縛られません。トマスも疑いを通して本当の信仰に至りました。「私の主、私の神よ」と最も明確な信仰告白をしています。彼はイエス様ご自身にひれ伏したのです。

○復活のイエス様とは、私の罪のために十字架にかかってくださったあのお方に他ならないのです。さらに、ご聖霊の息を弟子たちに吹きかけて「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」とおっしゃいました。つまり、復活のイエス様は、派遣の主であられるのです(マタイ28:19、マルコ16:15、ルカ24:47,48、使徒1:8)。永遠の希望の主であり、私たちと共におられるイエス様が来られます。私たちを派遣される主は、「世の終わりまで、いつも」私たちとともにおられるインマヌエルの主なのです。永遠のいのちに生かされた今が希望に輝いて生きられるよう、この永遠の希望の主を信じ、告白し、あらゆる人々に証しさせていただきましょう。