「私は主を見ました」ヨハネ20:1−18

「マグダラのマリアは行って、弟子たちに『私は主を見ました』と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」(ヨハネ20:18)

○復活は「からだのよみがえり」であって、幻ではありません。「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」(1コリント15:13−20)。さらに復活は空の墓という客観的事実だけでなく、それが私たちの信仰生活に現実に益を与える問題として主体的に受け止めるときに意味を持ってくるのです(ハイデルベルク問45)。

○弟子たちが帰ってしまっても、マリアはまだ墓の外にたたずんで泣いていました。愛する人の死という人生の究極の悲しみの現実の中に復活のイエス様が立たれたのです。そして、マリアの目を見えるようにしてくださったのは、復活のイエス様の「マリア」と呼ばれる声でした。復活のイエス様は、私たち一人ひとりに呼びかけられ(21:15,使徒9:4)、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。

○「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(ローマ6:4)。私たちの最後の敵である死は滅ぼされ(1コリント15:26)、「生」となったのです。そのとき問題になってくるのは、罪を赦され、永遠のいのちに復活し、栄光の復活に向かって生かされ始めた私たちの今の生活です(2コリント4:10)。復活のイエス様が私たちをもそれぞれの名前で呼んでくださいます。そして、復活を通してこの死ぬべきからだがいのちに生かされるのです。復活のイエス様に従うということは、現実の日常生活の問題です。

○イエス様が凱旋される天の父は、私たちと共通の父であり、復活のイエス様は私たちの兄弟となってくださったのです。それで「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ 3:21)。復活はこの世において私たちに、今を生きる力を与え、栄光に満ちた復活を保証してくれるのです。この復活のイエス様との出会いを私たちも証しさせて頂きましょう。