「最後の晩餐」マタイ26:14−29

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26:27,28)

○最後の晩餐の直前に、イスカリオテのユダの裏切りがありました。その席でイエス様は、唐突に弟子たちの裏切りについて語られます。弟子たちも「決して私ではありません」と言い切れない弱さを持っていました。だれもがユダになり得たのです。ユダはある意味で十二弟子を代表しており、主に従いきれない私たちを代表しています。私たちが個人的に確信していたとしても、それは当てになりません。しかし、その個人的確信が揺らいだとしても、そこに十字架のイエス様が用意していてくださっている救いがあります。

○十字架の救いは、私たちに先立ってイエス様が用意される所から始まっています。主はいつも私たちに先回りしておられます。主は私たちの罪に先立って贖いを用意しておられるのです。私たちが用意するものは、悔い改めてイエス様の用意してくださったところに行くことだけなのです。イエス様は、最後の瞬間まで悔い改めを待っておられます。私たちは、私たちのうちなるユダを恐れつつ、早く悔い改めて主の晩餐にあずからなくてはならないのです。

○「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるのです」(ローマ6:5)。イエス様にあずかることによって、私たちのたましいが霊的いのちを受けます。イエス様は、私たちを事実、イエス様のからだとされるのです。パンとぶどう酒は単なる象徴ではなく、イエス様が事実、肉を裂かれ血を流された出来事を示すものであり、この恵みの事実を信じる者にとってイエス様は現実にそこにおられるのです。

○イエス様が私たちのところに来てくださって、ご自分を低くされたのです。私たちがこのイエス様のもとに集められるところに、キリストの御体なる教会があるのです。そして、イエス様は来るべき神の国の食卓を仰ぎ見つつ、この最後の晩餐に臨まれたのです。イエス様はこの地上の食卓に連なる人々に御国の食卓を約束してくださっています。父の家に、私たちのために席が用意されています。