「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(ヨハネ11:17−45ネ11:4)

○ラザロの死は「神の栄光のためのものです」(ヨハネ11:4)。先週の聖書箇所で弟子たちが、生まれつきの盲人を見ながら、彼が盲目に生まれついた理由について尋ねた時もイエス様は「神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ9:1〜3)と、答えられました。

○聖書の中で「主の栄光」とは主の姿、主のみわざ、主の権威などを指しています。それは私たちが考える高慢、高ぶりというイメージではありません。主の栄光は「主はすべてを造られ、支配される全知全能の神である」という宣告だけでなく、その主が人々をどのように愛し、人々のために贖いをなされたかを強調しています。

○イエス様は生まれつきの盲目の人にも、ラザロの死にも、それは神の栄光とみわざを表すためだとおっしゃいました。その後何があったのでしょうか。盲目の人は目が開き、初めで自分の目でこの世界を見ることができました。ラザロは生き返り、死の墓から出て来ました。主の栄光はいつも私たちへの憐れみ、助け、贖いとつながっています。

○人は神の栄光を表すために造られましたが、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」なくなりました(ロマ3:23)。主はその回復のために十字架にかけられ、また復活されました。

○クリスチャンは主の栄光をいただくだけではなく、その栄光を表す存在でもあります。試練と苦難には主の助けと導きが伴い、そこは主が私たちを試みる場ではなく、私たちを必要とされ、私たちを用いようとされている主のみ心が示される場です。順境であれ逆境であれ、私たちを顧み、信頼し、共におられる主を覚え、主の栄光を表す歩みを辿り、求めましょう。