「神のわざが現れるため」ヨハネ9:1-12

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3)

○「人の子」とは、世の終わりの時に栄光をおびて来られる審判者、「天の雲に乗って来られ」「主権と光栄と国が与えられ」るメシヤ、救い主キリストのことです(ダニエル7:13,14)。イエス様は「あなたと話しているのがそれです」とおっしゃったのです。

○イエス様は昼と夜の区別だけをされました。昼とはイエス様がいらっしゃることで、夜とはイエス様がいないことです。私たちのうちにイエス様がいらっしゃれば、私たちは昼の間を歩んでいるのであり、世の光を持っているのです。ですから私たちは心の目でイエス様を見ること、「主よ。私は信じます」と言うことが大切なのです。

○何か不幸にぶつかると、何らかの説明を試みたい、原因を知りたい、その理由を見つけたいと思います。しかし、すでに起こってしまった過去は、二度と変えることはできません。ところがイエス様は過去からではなく、将来から、これから神である主がなさろうとしておられることから説明されます。これから、この人に、神である主がなさろうとしておられるみわざが問題なのです(使徒13:41)。

○みわざが行われるには、時がありますから、私たちはその時を待たなくてはなりません。しかし、待つのは行動するためです。イエス様がおられる時に、私たちは神のわざを行います。そのためにイエス様が用いられたのは、私たちが全く顧みないようなものです。そしてイエス様は、盲人の目を開けるために、わざわざその目を泥で塞がれたのです。しかし、覆われたのは落とされなければならないからです。覆いが落ちた時、彼の目に光が与えられ、イエス様を信じることで心の目が開かれ、魂の救いが与えられたのです。パウロも泥で目を覆われたようにされたからこそ、キリストの真の光に触れることができたのです。私たちも、罪の泥で目が覆われていた存在でした。そのことに気付かされ、イエス様を信じることで覆いを取り去っていただき、光に照らされた(1:5)のです。そうして「罪の増し加わるところには恵みも満ち溢れ」たのです(ローマ5:20)。