「永遠のいのちへの水」ヨハネ4:5−26

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

○サマリヤ人の女性は自らイエス様のもとに行ったわけではありません。イエス様の方から一方的に彼女に近づかれ、声をかけられ、罪を指摘され、本当のメシヤを待ち望ませ「わたしがそれです」と自らを示されたのです。この女性の救いについて主権を持って働いておられたのはイエス様ご自身でした。私たちの救いについても、実はイエス様が私たちを救いに導かれたのです。

○イエス様は自らを低くして、あたかも物乞いをする人の様に彼女に水を求めました。イエス様はその自由な愛で、民族間の敵意を乗り越えられていたのです。そして、イエス様の求めが、彼女を「生ける水」に導きました。この生ける水はご聖霊のことです(7:37,38)。霊的渇きが、私たちを神である主ご自身に導くのです(詩篇42:1,2,5)。

○その渇きとは私たちの罪です。救われる人は自分が救われなければならないとわかっている人だけだからです。イエス様は対話を進め、彼女の現実を示す中で隠されていた真実までもが浮き彫りにされていきました。私たちの罪がご聖霊の働きを隠してしまうのです。そして、今までは供え物を捧げて主を礼拝してきましたが、いよいよ、自分自身を捧げて父なる神を礼拝する時がきたのです。「霊」は主ご自身からのもので、「真」は私たちの態度です。この二つが一つとなるところに真実の礼拝があるのです。霊と真によって礼拝するところどこでも、ご聖霊なる神は私たちの中におられます。

○イエス様はこのとき、シナイ山でモーセに現れ、「わたしは『わたしはある』という者である」(出3:14)と言われた神である主と同じく、「わたしは『わたしはある』という者である」、つまり「あなたと話しているこのわたしが、神である主です」とおっしゃったのです。「生ける水」「永遠のいのちへの水」とは、実はイエス様ご自身にほかなりません。私たちが「わたしはそれです」「わたしはある」と言われるお方を本当に持っているなら、私たちは間違いなく救われており、決して滅びることがなく、永遠のいのちを持っています。