「絶望から希望へ」使徒10:34-48

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:43)

○「神はかたよったことをなさら」ないお方です。「イエス、、、を信じる者は、だれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」のです。そうであるならば、異質な人との間に正しい交わりが生まれてくるはずです。そうできないのは、私たちが隔ての壁を作っているからです。神である主に絶望的な事態は存在しません。主にとっては希望しかありませんから、どのような状況であっても、主に集中するときに、事態が希望的に変化してくるのです。

○このイエス・キリストにある「希望は失望に終わることがありません。なぜなら、、、私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださ」ったからです(ローマ5:5,6)。私たちが誰かと関わる時、主がその人を今、祝福しておられる、と信じてよいのです。福音は、喜びの知らせです。それは、主があなたを恵まれる、という知らせです。「このイエス・キリストは」私たちが関わる「すべての人の主です」 (2コリント5:21、ローマ14:15)

○イエス様こそインマヌエル、「神が共に」(マタイ1:23)おられるお方であり、その具体的事実が人々の間で起こりました。イエス様こそ「受け入れてくださる」神の御姿なのです。ですから、イエス様がされたように、「あなたがたも互いに受け入れなさい」(ローマ15:7)。なぜなら、人々がイエス様を十字架にかけて殺したことすらも、罪のゆえに背く者たちの救いの源となったからです。主にあっては、この世のどんな絶望も希望に変えられるのです。

○何を語るか、どう語るかが大切なのではなく、大切なのはご聖霊が下られるかどうかなのです。そしてイ「エス様を主」と言う信仰告白は、ご聖霊の御業です(1コリント12:3)。つまり、イエス様を告白した人は、ご聖霊を受け入れた人ですから、水のバプテスマ拒まないようにしましょう。そうして多くの実を刈り取らせていただきましょう。