「主の導き」使徒10:17−33

「ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」(使徒10:28)

○ペテロは幻を見たのですが、まだそれについてはっきりとした意味が掴めないでいました。「いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑って」いたのです。理由はわからずとも、あいまいなまま、未解決のままにしておき、全て今解決しなくてよい時があります。今分からないことも、やがて主が分からせてくださる、と信じれば、それは希望と信頼の対象になります。やがて時が来れば、主が教えてくださると信ずるならば、途中経過も信仰なのです。

○しかし、私たちにとってそれは「やがて」わかるものでも、主にとっては、「すでに」解決済みです。「ちょうどそのとき」、「コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた」のです。主はすでに、この日の前日、コルネリオに幻で臨まれ、ペテロを招くよう命じておられました。ペテロがコルネリオに「私もひとりの人間です」と言ったのも「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」とあらかじめ示されていたからです。

○人間はみな「神のように」なろうとしているのです(創世記3:5)。しかし、私たちは、園の中央に植えられた善悪の知識の木の実を食べることは許されていません。私たちには、限界があり制限があることを知らなければならないのです。全能の神である主自ら、イエス様において低くされ、しもべとなられました。

○主は今も生きて働いておられます。私たちは聖書から主の御声を聞くことができます。主からの恵みを得る事があります。その時、私たちを訪ねて来る人によって、主が私たちを導き、主が私たちをお用いなさることを知るのです。20節は本来「さあ、立って、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい」です(8:26, 9:6,11,10:26)。主が「立って」と言われたならば、私たちも立ち上がらなくてはなりません。主のみことばに従う時、必ず道が開かれることを信じて、私たちも立ち上がって進みましょう。