「選びの器」使徒9:1−19

「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫たちの前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒9:15

○主はキリスト教の迫害者であったパウロによって世界を変えようとされました。パウロ自身「私はその罪人のかしらです」(1テモテ1:15)、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)、「神の恵みによって、私は今の私になりました」(1コリント15:10)と断言しています。パウロの回心は、主がこのような人をもお用いになるという証拠です(ガラテヤ1:23)。

○「突然」(9:3,22:6,2:216:26,マラキ3:1)、迫害者であるサウロを照らした光は、彼を地に倒し、「目は開いていても何も見えな」い状態にしました。主が働かれるときは、突然が多いのです。そして、かつて自分自身を誇っていたパウロは(ピリピ3:4-6)、天からの光で打ち砕かれました。信仰とは、自分の力を失うことです。そして、パウロは三日間祈り、アナニヤを静かに待ちました。一信徒にすぎないアナニヤが、大伝道者、有能な神学者、聖書記者であるパウロの目を開くために用いられたのです。パウロは、このことにおいても謙遜にされました。パウロの姿は、彼の回心の姿を現しています。

○アナニヤも、最初は主のみことばより人のうわさを信じていたので、パウロの突然の変化を受け入れることができませんでした。しかし、信仰によってその間違いに気づくのです。信仰とは、私たちが良いと思うことから、主のみ旨を聞くように変えられることです。ついにアナニヤは立ち上がってサウロに会いにいきました。どちらかといえば、尻込みしたじろぎながら、それでも主のみことばに従ったのです。こうして、福音の初めに主は救うのに最も難しい人をキリストの使徒として用いられ、どのような人も救われないことはない、と教えてくださいました。「なぜなら、神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(1コリント1:25)。私たちも、どんな人でも救うことができる主に信頼して、福音を伝えていきましょう。