「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。わたしが来たのは、羊がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:9,10)

○弱くて強情な羊には羊飼いの導きが必要です。私たちは、一人で出歩かないで、いつも一人の羊飼いに導かれて、主の教会に集わなければならないのです。なぜなら、「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えてくる」「盗人」や「強盗」がいるからです(エペソ20:29,30)。本当の羊飼いは羊と同じ門を通り、同じ道を歩きます(ヘブル4:15,1コリント14:18,19)。

○正しい門から入るべきです。気をつけなければならないのは、いつの間にか、この門を通らず、自分勝手にほかのところを乗り越えて入って行ってしまうことです。しかし、門から入る良い羊飼いは一人一人を大切にするので名前で呼んでくださいます(出3:13,14)。神である主は人格であり、御父であり御子イエス様ですから、呼べば答えてくださり、御名を通してご自身を現してくださるお方です。

○信仰とはイエス様にある自由のことです。その中に入っても縛られず、そこから出て自由になっても自分勝手に陥らず、いつもイエス様という門から出入りして、羊飼いに導かれて自由に草をはむ羊の姿です。本来自由であるはずの信仰に窮屈さを感じたり、信仰を持つとあれこれ制限されて窮屈そうだと周りの人に思わせたりしているとすればそれは私たちが自分で自分を縛っているからです。

○この門は十字架です(10:11,17,18)。そして、十字架は私たちが負うものでもあります(マタイ16:24)。それは自分に死んで神である主に生きる道です。ですから、この十字架という門を通らないでほかのところを乗り越えて来る者は盗人であり強盗なのです。

○イエス様を通って入ることが救いです。それこそが本当の自由に至るための門、いのちに至る狭い門です。その永遠のいのちを私たちが豊かに得るために、イエス様はご自分のいのちを捨てられ(ガラテヤ5:1)、十字架の死によって私たちのために本当のいのちを獲得してくださったのです。そのいのちを「豊かに得るため」に「信仰に始まり信仰に進ませ」(ローマ1:17)ていただきましょう。