「天の御国が近づいた」マタイ3:1-12

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

○アドベントの期間をどう過ごして、イエス様の再臨に備えるべきでしょうか(マタイ25:40)。足に水を注がず、口づけせず、頭に油を塗らなかったパリサイ人は(ルカ7:44−47)、自分のことだけしか考えられない私たちの姿です。そして私たちが放ったらかしているのは、イエス様です。もし、イエス様が私たちのところへおいでになったら、私たちはどのように接待するでしょうか。

○主に立ち返ることが悔い改めです。傍観者にならず、自らが主のみことばに生きることです。悔い改めは、自分の罪を心から悔い、ますます自分の罪を避けること(ハイデルベルク問89)であり、キリストによって神を心から喜び、神が求めている善のすべてを喜んで行なおうとすることです(同90)。その良い行いとは「神の律法に一致して、神の栄光のためにだけ行われるもの」(同91)、つまり十戒です。

○バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で悔い改めを勧めたように、私たちの荒野のような心に語りかけたのです。私たちの心の荒野の中で、生ける神である主が私たちに出会ってくださるのです。ヨハネはただ、「神に立ち返れ」ということだけを説教し、生活で示しました。信仰の実は、心から生じるものなので、ただ行えば良いのではありません(21:19)。行いは、心に悔い改めがあって、始めて価値があります。悔い改めとは、私たちの全生活が、主の栄光のためになるような、根本的な心の転換のことです。

○バプテスマのヨハネ自身が、この悔い改めに生きた人でした。彼はあくまで「荒野で叫ぶ者の声」で満足し、自分のあとから来られるお方を指し示しました。このヨハネの姿こそ、私たちクリスチャンのあるべき姿です。私たちにできることもいつも道備えに過ぎないのです。ただ、道備えするときに、まことの救い主がおいでになるのです。私がその道を歩いてしまっては、イエス様は来られません。大切なのは、あとから来られるお方です。そのお方を指し示すために、いつも悔い改めに生かさせていただきましょう。