
2025年2月2日「慰めと贖い」ルカ2:22−40
「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」(ルカ2:25、38)
◯イエス様が律法に基づいて主に献げられた時、そこにイエス様を受け入れた二人の老人がいました。私たちが主を褒め称える時、賛美が賛美を呼んでいくことを経験します(伝道4:9−12)。シメオンとアンナは、主の救いを褒め称える点で一致しています。二人は、それぞれ主によって導かれ、共に救い主を褒め称えたのです。
◯シメオンについては何一つわかりません。ただ一言で言えば、彼は聖霊の人でした(ルカ2:25-27)。イエス様がご聖霊によってマリアの胎に宿られる(1:35、マタイ1:20)はるか前に、シメオンはご聖霊を受けていました。彼は「主のキリストを見るまでは決して」死ぬことはないと「聖霊によって告げられていた」とおり確信していました。◯アンナは「アシェル族のペヌエルの娘で」「女預言者」、「やもめ」で「84歳」、「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えて」おり「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語」りました。彼女も待ち望んでいたので、この幼子こそ約束された贖い主であることをご聖霊によって示されたのです。
◯シメオンはマリアに向かって言いました(イザヤ8:14、15)。マリアを刺し貫く剣は、私たちをも刺し貫く剣です。それが私たちの罪です。しかし「立ち上がる」ともあります。イエス様は私たちにとって、信仰と生活の土台です。イエス様に出会うことで私たちの傲慢が打ち砕かれ、そこで真のキリストに出会うのです。
◯幼子イエス様を受け入れたシメオンとアンナは、幼子のゆえに「神をほめたたえ」「神に感謝をささげ」ました。この二人は、「イスラエルが慰められ」「エルサレムが贖われる」ことを待ち望んでいました。主の約束の成就を確信していなかったら、イエス様に出会うことも、出会ってもその幼子が「主のキリスト」であるとの確信を持てなかったでしょう。私たちも主に祈るとき、期待して「待ち望んで」祈りましょう。主に期待しつつ確信して待ち望む者に、主は期待以上のものをくださいます(イザヤ40:31)。
この記事へのコメントはありません。