
2025年2月16日「幸いな人」ルカ6:17-26
「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(ルカ6:20)
◯イエス様は十二使徒を選ばれました。その中にユダも含まれていました(ルカ6:12−16)。イエス様の弟子となるのは私たちの功績ではなく自由なイエス様のあわれみによります(1コリント4:7)。そのイエス様の弟子とはどういう者であるべきでしょうか。
◯イエス様は、「貧しい人たち」「飢えている人たち」「泣いている人たち」に「幸いなことよ」と語られました。人々は、どうして自分たち、貧しく弱い者たちが幸いなのか、と思ったことでしょう。ところが今、彼らの中に立たれたイエス様は、人々の罪や悩みや病をご自分の身に負われ、この貧しい人たち、飢えている人たち、悲しんでいる人たちを、その状態のまま祝福されるのです(2コリント8:9)。それこそが、この世からは得られない、彼らが一番求めていたものです。
◯私たちは自分自身を本当に貧しい者だと認めているでしょうか (ヤコブ3:2、3、黙示録3:17)。「貧しい人たち」とは、物乞いのことです(ルカ11:5-13)。「神に対して富まない者」に対して主は、「愚か者」と言われます(ルカ12:20、21)。「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです」(ルカ12:31−34)。
◯イエス様は本当に貧しい者、渇いている者を求めておられます。まだ受けていない何かを期待することが信仰です(ヘブル11:1)。欠けがあるからこそ、その欠けが主によって満たされることを求めて、イエス様に信頼して祈るのです。そのような信仰が祝福されます。
◯私たちは、人の評価を日々気にしています。しかしイエス様は、人から「憎まれ、排除され、ののしられ、悪しざまにけなされる」、その最大の不幸を「幸い」だと言われるのです(ルカ6:22)。それは「人の子のゆえに」「御名のために」だからです。信仰は、主のため、イエス様のためです(1ペテロ4:14−16、19、使徒5:41-42、コロサイ1:24)。「その日には躍り上がって喜びなさい」「天においてあなたがたの報いは大きいのです」(ルカ6:23)。私たちもその時は忍び通しついに復活の勝利を果たされたイエス様の勝利に与るのです。
この記事へのコメントはありません。