
2025年11月16日「もはや見出されない」黙示録18: 21-24
◯「大バビロン」が倒れる時、「地の王たち」「地の商人たち」「海で働く者たち」が嘆き悲しんでいます。彼らが「泣いて胸を打ち」き「泣き悲し」み「頭にちりをかぶり、泣き悲しん」だのはどうしてでしょうか。
◯地の王たち」が「泣いて胸を打ちたた」(18:9)いたのは1:7と同じで、ゼカリヤ書12:10の引用です。この嘆きは、イスラエルの民が、彼らが反逆し続けてきた神に悔い改めて哀れみを求めた、ということですから、18:9も、悔い改めの嘆きを意味しています。「わざわいだ、わざわいだ」(18:10.16、19)は、黙示録では神である主の宣言として用いられています(8:13、12:12)。「わざわいだ」は裁かれる者の叫びではなく、主に背く者への裁きの宣告です。「海で働く者たち」がみな「頭にちりをかぶり、泣き悲しんで」叫んだのは(ヨシュア7:6、エステル4:1、ヨブ2:12、エレミヤ2:10)、悔い改めの表現です。ここまで来てもまだ、悔い改めが残されています(2サムエル24:14)。
◯ティアティラの教会は「イゼベル」と呼ばれる女によって混乱させられていました(2:18−29)。しかし「イゼベル」と「姦淫を行う者たち」が「この女の行いを離れて悔い改め」るならば、救いの機会が与えられます(2:26)。同じように「大バビロン」と「淫らなことを行い、ぜいたくをした」「地の王たち」も悔い改めるなら救われます。
◯も喜びが広がって、すべての者が悪の支配の終わりを喜びます(エレミヤ51:48)。主は、聖徒たち、使徒たち、預言者たちのためにさばきをくだされご自身の義を示されました。そして、「キリスト・イエスご自身」を要の石とし、「使徒たちや預言者たちという土台の上に」神の国を築き上げられ、「御霊によって神の御住まいと」されたのです(エペソ2:20-22)。
No.1159(11/23)「わたしのもとに来なさい」マタイ11:28−30
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
◯人間には肉体的な面と霊的な面があり、それが合わさって一人の人格とされます。そしてからだとたましいは相関関係にあります。
◯クリスチャンの信仰の対象は、今も生きておられるイエス・キリストです(使徒12:4)。イエス様が私たちの根本的な罪を負ってくださり、十字架にかかって、その罪を私たちの身代わりに償ってくださいました。そのことを受け入れるとき、私たちの罪は完全に赦され、神である主は二度とその罪を思い出されないのです(イザヤ43:25)。
◯人生のあらゆるところにイエス様の主権を認めていくときに、イエス様は、ご自身の方法で導いてくださいます。イエス様が天に帰られるとき弟子たちに「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)と言われた通り、教会は以来2000年間、日曜日ごとにイエス様の教えを聞いてきました。
◯イエス様も「わたしのくびきを負」うようおっしゃっています。創造主が被造物である人間の最も弱い姿を取られたほどへりくだられた方のくびきですから、「負いやすく」「荷は軽い」のです。また、私たちは一人で負わなくてもいいのです。そのくびきで繋がれているもう一人は、実はイエス様ご自身だからです。イエス様が私たちの重荷を一緒に負ってくださいますから、私たちはイエス様に私たちの人生を委ね、イエス様に従って同じ方向に歩むならば、私たちの荷は必然的に軽くなります。
◯今日、私たちがここにいることは必然であり、イエス様の招きに応えたからです。イエス様は、私たちのために十字架で傷を受けてくださり、私たちの罪の傷をご存知で、それをいやすことができるお方です。礼拝においてすべての重荷を降ろし、イエス様のくびきを負い、イエス様と一緒にすごし、イエス様に従うことによって、真の解放、たましいの安らぎを見させていただきましょう。


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