お知らせ

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ21:16) ○私たちは自らイエス様を救い主と信じて洗礼を受けクリスチャンとされました(ローマ10:9,10、3:23,24、ガラテヤ3:16、使徒16:31)。しかし「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』ということはできません」(1コリント12:3、1ヨハネ4:2,15,10)。イエス様も「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」と言われます(ヨハネ15:16)。先行する主のお働きがあったのです(ハイデルベルク8)。イエス様が罪深い私たちを選んでくださったのであれば、その選びに変更はありません。主の選びは永遠だからです。救われた者はこの恵みを信じて、この恵みに徹底的に生きることが必要です。 ○自分を見るのではなく、イエス様を見ていくことが必要です。天の父が与えてくださった信仰に生かされているなら、決して救いからもれることはないのです(10:27−30)。私たちが主を選んだのではなく、主が私たちを選んでくださったのであれば、どんな問題が襲って来たとしても耐えることができるのです(ローマ8:28-39)。 ○私たちが今イエス様のみことばを聞いているということが、私たちがイエス様の羊であるというしるしです。さらに、聞くことは従うことです(マタイ4:19,20)。ただイエス様のあとについていくということであれば、それほど難しいことではありません。そればかりか、それに従うことが一番よく、一番やさしいことだとわかります。 ○イエス様の中に天の父なる神を見出すならば、真にイエス様に従わざるを得ません。そのとき、状況がどうであれ「多くの人々がイエスを信じた」のです。主ご自身によって多くの人々が選ばれていたからです。どんな悪い環境の中でも必ず主が選ばれた人々がいます。この、主ご自身の選びと熱心に信頼して、私たちも熱心にイエス様をあかしさせていただきましょう。

「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:16) ○ヨハネは20:30,31でこの書を記した目的をはっきり書いています。なぜヨハネはこの21章を書き加えたのでしょうか。それは、イエス様を三度裏切ってしまったペテロを特別に取り扱われるためでした。 ○私たちは復活のイエス様に差し上げるものが何もないのです。しかしそこに復活の真理が明らかにされ、足りないところに満ち溢れる恵みが注がれるのです。みことばに素直に従った時イエス様は、地上の働きの祝福を通して、彼らの使徒としての奉仕も豊かな実りをもたらすことを保証してくださったのです。しかも、すでに用意してありながら私たちの働きの実も用意するよう言われます。ペテロたちを召された主は、宣教命令とともに大いなる実りという祝福を約束しておられます。だれもその祝福から漏れる人はいないのです。 ○イエス様は三度ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねられます。信仰とはイエス様からの問いかけに応えることです。その内容は「愛」です。その答えが私たちの信仰だからです。しかしペテロは「はい。愛しております」とは答えられませんでした。それは謙遜と言えるでしょうか。「信じます」「愛します」、と宣言することが大切です。ペテロがはっきり語るようになるのは、ペンテコステの後でした。ついにペテロが至った信仰の単純さが力強さになりました。 ○イエス様はペテロに「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。イエス様ご自身が「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)でした。また「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と言われました。つまりイエス様を愛するということは最も小さい者を養い育てることです。小羊を養い育てることこそが、イエス様に仕える奉仕なのです。 ○信仰においては不自由になって初めてわかる真理があります。自分が働くのではなく、主が働いてくださるからです。イエス様に従うことこそが衰えも克服し、死すらも超えてゆく道だからです。その時には私たちに必要な力さえ与えてくださるのです。

〇復活のイエス様は不安の真っただ中にある私たちに永安を告げてくださいます。死の恐れのただ中にある私たちに真の平安を与えてくださるイエス様の到来こそが復活でした。人間の存在を不安にする根本原因である死に解決を与えるのが復活です。 〇だからこそイエス様はまず「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのです。イエス様の存在こそインマヌエル、神は私たちとともにおられる、ということなのです。ですから、復活して永遠に存在されるイエス様がともにおられるならば、平安なのですが、その存在がともにおられなければ不安になります。そして、最大の不安要因である死の先から来られた方が復活のイエス様です。イエス様は死を突き抜けて私たち人間に「神は私たちとともにおられる」と告げてくださっているのです。 〇そして疑うもののところにも、復活のイエス様は現れてくださいました。生きて働いておられる永遠におられる主は、疑いにも不安にも縛られることはありません。

〇誰も働くことを許されない安息の一日、イエス様は墓におられました。私たちの生活の中でも希望を失って落ち込んでしまうことがあるかもしれません。しかし、復活の夜明けは必ず来るのです。 〇一般に、死んだら人生が終わりだと思われています。しかし、聖書では死が始まりだと告げています。十字架に死なれ墓に葬られたイエス様がその墓を空にしてよみがえられたからです。罪のない神の子が罪そのものとされ、まず十字架の刑罰を受けられ、「私たちが神の義となるため」「私たちのためにのろわれたものとなって」くださったのです。私たちの生の意味を決めるのは創造主ご自身です。そしてイエス様の復活はからだのよみがえりです。永遠のいのちとは、肉体の復活に関することです。イエス様の復活の信仰において、失敗の人生というのはありません。希望は向こうからやってきます。 〇この生きておられるお方は、全ての人間の失敗も悲惨も苦悩も一切、十字架の上に背負って勝利されたお方です。

〇イエス様はなぜロバの子に乗ってエルサレムに入られ、苦しみを避けることをしなかったのでしょうか。それは旧約聖書に預言されていたことだからです。 〇イエス様ご自身も、それを予告しておられました。そのうえでイエス様は御顔をエルサレムに向けて進んでおられました。そして、エルサレムに入るにあたってロバの子を連れてくるように弟子たちに命じられたのです。つまり、これからエルサルレムで起こることについて、主導権をもっておられるのはイエス様ご自身です。イエス様ご自身の意思で引き受けられたのが十字架でした。この時の弟子たちの仕事はいたって簡単で、イエス様に言われた通りにしただけでした。かれらは「主の山に備えがある」という事を体験したのです。 〇ただ主が用意しておられただけではなく、その主の御容易に答える弟子たちがいなければなりません。主の山にそなえがあっても、何もしなければ始まらないのです。 イエス様はこれから十字架にかかり、私たちの罪の贖いの生贄としてご自身を捧げてくださいます。この主の備えに私たちも応えていきましょう。私たちが黙っているならば、石が叫び出し、なにも差し出さなければ、ロバの子が用いられるのです。