
2026年2月22日説教「隠れたところで見ておられる父」マタイ6:1−6.16−21
「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:4、6、18)
◯放蕩息子の兄の問題は、彼の正しさ、彼の義、つまり「善行」でした(ルカ15:29)。イエス様によって御国の民とされた者、十字架の赦しのもとにあるクリスチャンは、自分の正しさ、自分の義、自分の善にこそ注意すべきです。どのようにすればいいのでしょうか。
◯「隠れたところで見ておられる」私たちの「父」が中心になりますと、私たちの行動は自分にとらわれずに、イエス様にのみとらわれます。私たちの行動の目的が神である主であれば、私たちが黙っていても主がお語りくださいます。隠れて行われていることについて、主が報いによって答えを与えてくださいます。主ご自身が隠れているお方なので、私たちの行動も隠れているべきです。
◯それは、祈ることについても同じです。見られている祈りか、隠れている祈りか、ではなく、「見せるための祈り」「人に聞かせるための祈り」になっていないか、ということなのです。「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈った取税人が「義と認められて家に帰」りました(ルカ18:13、14)。生きておられる主と対話することが祈りです(詩篇27:7−9)。生きた信頼、主との交わりが祈りです。全知全能の主に身を委ねる信仰だけが祈りに必要です。
◯断食とは、食べないことによって、一切を主により頼む、ということです(出14:13、14)。信仰生活においては、主が働かれるために、私たちが何もしないでいる時が必要です。断食とは、私たちが無力にされて、全能の神である主に全幅の信頼を置くことです。自分の危機を知って全く主の前に悔い改めることこそ断食で、「隠れたところで見ておられる」私たちの「父が報いてくださいます」。
◯イエス様への感謝がなく宝をたくわえますと、心がそこに囚われてしまいます。あなたの信仰の心のあるところ、そこに真の宝もあります。良い宝は、決してなくならない天の宝です。それは隣人を愛し、互いを助け、人に与え。良い業に励む事です。この宝は決してなくならず、やがて天の御国の栄光に輝き始めます。


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