
2025年11月12月7日「天の御国が近づいた」マタイ3:1−12
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)
◯人の死の前に私たちは厳粛な思いにされ、「思いがけない時に」訪れるイエス様の再臨をお迎えする備えをしながら、身近な人の死についても考えておかなければならないことを覚えさせられます。
◯「悔い改め」は古い自分が死ぬことと、新しい自分が生まれることの二つです(ハイデルベルク88)。私たちが、生涯、自分の罪深さをますます知るようになり、その罪の赦しと義をますます熱心にキリストに求めるようになり、また、聖霊の恵みを絶えず熱心に神に祈り求めるようになって、この世の生活の後の完全さの目標についに到達するまで、私たちがますます神の似姿に変えられるようになるため、律法(十戒)が与えられています。
◯バプテスマのヨハネは、私たちの人生の荒野を思い起こさせる荒野で宣教を始めました。それは、私たちの心の荒野の中で、生ける神である主との出会いを起こすため、私たちに「悔い改め」を呼び起こすためでした。「悔い改め」とは、この生ける神に立ち返ることです(ルカ15:21)。そして、自分が空になった時、上からの救いで満たされます。「悔い改め」は私たちを空にするものです。
◯「悔い改め」とは、私たちの全生活が、主の栄光のためになるような、根本的な心の転換のことです。アブラハムは確かに、信仰によって義と認められる恵みの保証であり、約束の印でした。sかし、主の恵みの賜物も、私たちが低く謙遜になって、毎日新しく受けるのでなければ、無駄になってしまいます。与えられた賜物も、その賜物をふさわしく用いなければ、使い物にならなくなってしまいます。
◯バプテスマのヨハネは、人気が出るほど、かえってますます低くなり謙遜にされ、奉仕するしもべとなりました。彼はあくまで「荒野で叫ぶ者の声」で満足し、自分のあとから来られるイエス様を指し示しました。彼はその死に際しても静かに歴史から退いていきました。このヨハネの姿こそ私たちクリスチャンの姿であるべきです。私たちにできることもいつも道備えに過ぎません。ただイエス様を指し示すために、いつも悔い改めに生かさせていただきましょう。


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