「いのちの戒め」マタイ5:21−37

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:37)

○「殺してはならない」は十戒の第六戒ですが、十戒には前提があります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出20:2)。この解放の喜びが大前提です。この主からいただいた一人一人の命を尊重し大切にしていこう、というのが十戒の本来の意味です。人間はただ肉体だけでなく体も心もすべてが神のかたちに造られており、愛し合う存在、対話する人格とされています。イエス様がその人のために尊い命を捨てた対象として隣人愛が生まれ私たちも他者を「兄弟姉妹」と呼ぶことができます(ローマ8:10,15)。逆に腹を立てる、ということはこの隣人の中にある「神のかたち」を傷つけ、破壊することですから、人格的な殺人に等しい行為なのです。

○自分が憎まれ、腹を立てられ、うらまれている時、しかも礼拝の最中でそれに気付かされた時、「まずあなたの兄弟と仲直りしなさい」と言われています(ローマ5:8)。私たちは、毎日互いに裁き合っています。そのため、イエス様が自ら十字架の上で裁かれ、和解の主として立ってくださったのです。イエス様は私たちの憎しみ、怒り、傲慢、罪をすべて十字架につけて殺してくださいました。その、イエス様が死なれた十字架から和解が生まれたのです。

○「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(7:12)。黄金率と呼ばれるこの教えこそ、山上の説教の要約です。私たちは自分がうらみ憎むだけでなく、自分が恨まれ憎まれていることがあります。この立場の逆転が大切です。神である主が人となり、罪のないお方が罪人とされたことが最大の逆転劇です。神である主が私たちの立場に立ってくださったことで、神が私たちに和解してくださったのです。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いに預かるのはなおさらのことです」(ローマ5:10)、「・・・神の和解を受け入れなさい」(2コリント5:19,20)。十字架の主を見上げ、私たちに今求められていることをしていきましょう。