「地の塩、世界の光」マタイ5:13-20

「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:20

○私たちは天の御国を待ち望む者とされました。それは、ただ天を夢見ているのではなく、この地上に使命があって、この世に遣わされているということです。しかも地の塩、世界の光として、自分以外のものに味をつけ、自分の周りを照らすものとしてです。そして今、既にそのままで塩であり光であるのです。私たちの内なるイエス様こそこの味気のない現実に味をつけるお方です。

○塩は、食物に溶け込んで自分を失った時、相手に味をつけることができます。塩が自己を捨てた時、その真価が発揮されるように、私たちも自己を捨てた時、福音が他者の中に生き始めるようになります。一方、光は外から照らすものです。光として私たちはキリストを証ししていきます。真の光は「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われたイエス様です。私たちは、そのイエス様の光を反射しているにすぎません。しかし、どんな小さな灯りだとしても、高い場所にある燭台の上に置くなら、家全体を照らすことができます。

○イエス様が私たちに求めておられるのは、土台から全く新しく変えられることです(2コリント5:17,18)。この全くの新しさが、イエス様の十字架の愛です(1ヨハネ2:8,4:18-21)。良い行いが不要になったわけではありません。十字架だけが良い行いの源であり、信仰によってイエス様に繋がれた人は、そこから感謝と喜びの実が生まれてくるのです。このような良い行いは、もはや自分を誇るのではなく、ただ主をほめたたえます(5:16)。

○イエス様が来られたのは、旧約聖書全体を成就するためです。そもそも、主の御心を表したものが律法なのです。大切なのは主の愛の御心です(2コリント3:6)。すべての良い業はこのお方の愛から流れ出てくるものです。そして、義とはキリストのことです(1コリント1:30,31)。また、義の本質は愛です。自分を良く見せる行為ではなく、人を良くする行為こそ、本当の良い行いです。