「こうしてわたしを試してみよ」マラキ3:6−12

バビロン捕囚からの帰還者が神殿再建工事に献身し、その礎が据えられた日に、主はハガイを通して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう・・・わたしはまた、この所に平和を与える」(2:9)、また、「きょうから後、わたしは祝福しよう」(2:19)と明言されました。また、ゼカリヤを通して、「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう・・・わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる」(8:3,13)と言われました。両者に共通するのは、将来的なエルサレムの繁栄の回復と同時に、神殿の再建に関わった人々に目に見える祝福がすぐに実現すると約束されていることです。

しかし、マラキの時代の人々は、紀元前516年の神殿再建から約50年ぐらいたったときの人々で、自分たちの期待が裏切られたと感じていたのだと思われます。

 

しばしば、会堂建設の後にも、「期待したほどには、主の栄光を味わうことができなかった・・・」、「新会堂建設にそれなりに協力したつもりなのに、私の生活はそれほど祝福されているとは言えない・・・それどころか、神を知らない友人の方が、最近、いやに羽振りが良くなっている・・・」などという思いが生まれるかもしれません。

しかし、主の祝福は、確かにすぐに実現した部分と、将来、人々の期待をはるかに上回って実現する部分との両面があるのです。マラキの預言は、まさに現代の私たちの教会へのメッセ―ジと言えましょう。

 

2章17節は、「おまえたちは主(ヤハウェ)を煩わした。そのことばによって」(私訳)という厳しい表現から始まります。それに対して民は、「どのようにして・・煩わしたのか」と言い返した様子が描かれます。それに対し、「おまえたちは次のように言うことによって」と記され、その内容が、「悪を行う者もみな主(ヤハウェ)の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる」または、「さばきの神はどこにいるのか」という二つのことで描かれています。

 

3章6節では、まず祝福の望みが、「わたし、ヤハウェは変わることがない。あなたがたは、ヤコブの子らであることをやめることはない」(私訳)と記されます。

それは主がアブラハムに、「あなたの名は祝福となる・・・あなたは多くの国民の父となる・・・あなたの子孫をおびただしくふやし」(創12:2、17:4,6)と約束されたことを、守り通してくださるという意味です。

パウロもイスラエルの選びに関して、「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11:29)と記しています。神は滅ぼすためではなく、きよめのために懲らしめるのです。

 

しかし、それにも関わらず、「先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった」(3:7)と非難されます。

その上で、主は今、「わたしのところに帰れ」と、哀れみに胸を熱くしつつ、招いておられます。しかもそこで、「そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」と約束しておられます。これは、主の栄光が神殿に戻ってくるという意味です。

ところが、彼らは「どのようにして、私たちは帰ろうか」などと、愚かな応答をします。それに対し、主は、具体的な、主のもとに「帰る」方法を示してくださいました。

それこそが、十一献金の意味です。

 

旧約の最後はエリヤの再臨の約束で閉じられ、もっとも古い新約の福音書マルコでは、「バプテスマのヨハネ」の現れから記述が始まります。また、「主に帰る」ことが、十分の一献金として現されていることは興味深いことです。

多くに人にとって、お金は家族の命の次に大切な物です。だからこそ、私たちの信仰は何よりもお金の使い方に現されることになるのです。主ご自身が「わたしをためしてみよ」言ってくださっているのですから、これを主の祝福を味わう契機とさせていただきましょう。そして、さらに大きな祝福を主に待ち望みましょう!