「さあ、ベツレヘムへ」ルカ2:8−20

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

○羊飼いたちの恐れとは何だったのでしょうか。御使いが近づき、主の栄光が回りを照らしたことに大きな恐れがありました。旧約聖書の時代は、神を見たものは死ぬと言われていました。あまりに清い神から見れば人間は罪に汚れた存在です。神は、それほど畏れ多い存在だと考えていたのです。そのような恐れ(畏れ)、真の神を恐れる恐れが、御使いを見た羊飼いたちにあったのです。真の畏敬の念があるところに、「恐れるな」という御使いの声が同時に聞こえ、恐怖は消えていくのです。

○主の栄光の光が、今、羊飼いたちを照らしました。その栄光の光は今、私たちをも照らしています。「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」(エペソ5:13,14)。明るみに出されるものは私たちの罪です。そして、本当の罪とは、神である主が私たちの苦しみ、悩み、悲しみ、不安などのすべてに関わろうとしておられるのに、私たちが傍観者になっている事です。しかし、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。私たちはこれほど愛されているのです。

○御使いが羊飼いたちに告げたことを、羊飼いたちはまず信じました。そして、ただ信じただけではなく、その話が本当かどうか確かめに行ったのです。そして、「見聞きした事が、全部御使いの話のとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った」(2:20)のです。イエス様を救い主と信じて、それを公に告白した者は救われます。その救われたしるしとして、洗礼を授けます。確かに信じて救われたということを公に証明し、将来においてもそれを再確認するためです。2000年間続けられてきたことこそが、何より、イエス様が教えられたということのしるしなのです。