「御恵みのことば」使徒14:1-18

「それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。」(使徒14:3)

○福音が語られる時、必ず信じる人が出てきますが、反対の勢力も出てくるのです。「それでも」ふたりは長らくそこに滞在し、大胆に「神のことば」(13:44,46,48,49)を語りました。すぐに諦めたり、自分の判断で引き返したりしますと、恵みを得られません。

○パウロとバルナバは、自分のことではなく主のことを語ったので、主も「彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた」のです。ルステラで足のきかない人をいやし、群衆がふたりにいけにえをささげようとした時も、彼らはそれをやめさせました。ただ、主のことを語ることだけが、彼らの生きる目的でした。

○「いやされる信仰」 (マタイ13:58、マルコ5:25−34、ルカ8:43−48、使徒3:1−8)とは、いやされたとき、それが神である主の奇蹟だったと受け止める信仰のことです。そもそも、いやしは主の御業ですから、それを主の御業だと受け止められれば、それは信仰によっていやされたのです。いやされなかったとしても、そこに主のご意志があると信仰によって受け止められるのです。

○パウロは、「依存心を捨て、神である主からいただいたあなた自身の足で、まっすぐに立ちなさい」と言ったのです。この人は、主に信頼し、パウロのことばに素直に従い、「飛び上がって歩き出し」ました。信仰者も「自分の足でまっすぐに立つ」ようになることが必要です。主からいただいた信仰により頼んで、自分の足で歩み出そうとするとき、躍り上がって、主を賛美しながら歩むようにされるのです。そして、その姿が人々に対する証しとなるのです。